私達は日本の「こころとふるさと」の姿を残しました。

大正14年-昭和22年に撮影された1500枚に及ぶ写真は、カルシュ博士が旧制松江高校の教職員や関係者が残した貴重な写真です。

下線部分を順次クリックして各内容をご覧ください。

とくに同博士と彼の愛弟子が撮影した写真は日独米3カ国で若松秀俊が自ら集めた後に、カルシュ博士顕彰会の協力を得てまとめたものです。 そのうち、撮影の時と場所が明らかなものについては、遺族や関係者らの体験を基に記した拙著をすでに下記のように公表しておりますが、 いまだに多くの未知の内容を含んでおります。読者のさらなるご協力を願っております。読者よりお便りをお待ちしております。

ひっそりと日本の人々の心を愛した一人のドイツ人の紹介に、先ずはその枚数に変動がありますが軽井沢の様子 238枚を写真を用います。彼は、全国に亘る景勝の地を風光の美 228枚として友人とともに自ら記録しています。そして近隣の景勝を愛弟子の遠藤捨雄らとともに日本海の眺望 181枚として記録にとどめております。また、彼の生き方に大きく関わった大山の眺望 140枚に対する特に深い印象を自らの手で撮影しております。これらの写真や以下の写真や絵画、資料を基に、是非「展覧会」を開催して、出所を明確にして、無料で公開していただければ幸いです。必要ならば、カルシュ博士顕彰会の若松代表がPDFでの説明を寄せるか、直接に講演させていただきます。

当時の教師であるドイツ人哲学者フリッツ・カルシュの生誕から125年が経過しました。第一次大戦での従軍の記録 残し、戦後は自らの専門を工学から哲学に変え、大学をも変えて、マールブルクで学位を1923年に取得しました。その後、大正14年より14年間にわたり、旧制松江高等学校 142枚(現島根大学)で教育に力を注いできました。その中で、同氏は

その証として、カルシュの薫陶を受けた著名人を挙げてみます。 彼は教育者であるとともに、日本の哲学や宗教の研究家で、昭和15年から5年間は外交官でもありました。彼の薫陶を受けた著名人には「長崎の鐘」で知られる永井 隆、免疫学者で日本のジェンナーと呼ばれる奥野良臣をはじめ、科学者、文学者、政治家、法律家、外交官など枚挙に暇がありません。
1999年以来、若松秀俊がこれまでに日本国内、ドイツおよび米国で蒐集した関連資料の永久保存のために、歴史的価値のある松江市奥谷町の旧住居を記念館として改修・復活する呼びかけを行ってきました。 彼は赴任先の松江では神社仏閣 125枚や印象に残った大正から昭和にかけての田園の原風景 181枚そして、そこでの密な交流を彷彿させる近隣の人々 214枚 との触れ合いを写真に残しました。人々と共有した体験をも松江の誇り 158枚として記録にとどめながら水の都松江 164枚によって当時の営みを称賛しております。 そして、同時に故郷と友情 250枚として当時の海外での様子をも記録し、 また、彼の印象の一部は『カルシュによる絵画集』に残しております。

これら上記の若松秀俊編「写真集11冊と絵画集」は「書庫」に登録してあります。クリックし画面が出たら、Keyword(例えば「写真」)を入れて検索できますが、 その表紙をまとめた形でアルバム日本カルシュによる絵画として掲載いたしました。 ハーンと並ぶ功績を残した同博士は、繰り返しになりますが、数多くの優れた風景パステル画、歴史的写真、それに専門著書と1万5千頁におよぶ未整理の研究原稿や関連図書を世に出しております。戦中戦後の混乱により歴史の狭間に埋もれた、隠れた偉大な教育者、哲学者のカルシュ博士について、その足跡が広く国民に知られるよう念じております。そのためにも、写真を自由にご覧になり、ご利用をもお考えになり、意見などをお寄せくだされが幸いです。展示会などの企画があれば、併せてご提案ください。連絡先のメールアドレスは写真の右上に記してあります。

カルシュ博士の縁

カルシュの親類には1937年ショパンコンクールで入賞したピアニスト、チェンバリストであるエディット・ピヒト・アクセンフェルト(元フライブルク音楽大学教授)がおり、多くの日本人弟子を残しております。草津での定期音楽会など彼女に縁のある音楽家をお知らせください。お待ちしてます。また、モラクセラ・ラクナータ菌を発見し、現在の眼科学に大きな影響を及ぼし、訪日した世界的権威のテオドール・アクセンフェルト(元フライブルク大学教授)がおります。なお、現在ベルリンの博物館に歴史的重要資料として厳重保管されている「ヒトラーの行動記録(16ミリ)」を戦後ミュンヘンでハンス・バウアーより押収し、保存していたのが長女メヒテルトの夫ヘルベルト・セイント ゴアールです。ライン川流域のセイント・ゴアール市の200年前の富豪で、市長を勤めたラツァルス・セイント・ゴアールは彼の祖先です。近年、顕彰されて子孫の彼がドイツから大歓迎を受けています。近隣の博物館の所蔵であるフランス語で書かれた資料で市長としてのLazarus St.Goarの存在は確かめてあります。ところで、メヒテルトの母はエッメラですが、母エッメラとその従妹でピアニストの先述のエディットらの祖先の聖職者エリザベートがエリザベート教会の創始者(未確認)ということでもありますが、どなたか本格的に調査していただければ、とても嬉しく思っています。 カルシュには、戦後復興に活躍した枚挙に暇のない著名人を育んだことだけでなく、90年前の出雲の地や日本各地の貴重な記録を後世に残した功績、さらに周囲にも多くのことがらが語り継がれており、彼が松江にとどまらず全国、そして朝鮮半島や台湾からの派遣高校生の教育にも尽力したことは旧制松高外国人同窓会を通して我々に雄弁に語っております。 長女メヒテルトは近年までアメリカでシュタイナーの人智学の中心人物で、次女フリーデルンは戦後のシュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)出身で、マールブルク大学卒業後、同じ自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に永年携わり、現在も継続的に活躍しております。 そして、直接に彼女から二代にわたって教育を受けた日本人にも辿り着くこともできるほど、カルシュの影響の拡がりを世界中にみることができます。

カルシュ博士と生徒

カルシュには現代の教育に大きく影響を及ぼしている人智学ルドルフ・シュタイナーを日本に紹介した大きな業績があります。一般には戦後に紹介されたと言われていますが、1925年に来日したカルシュ夫妻が交わした1923年当時のシュタイナーに関するノートが現存し、スイスのゲーテアヌムでのシュタイナー信奉者同士の交流も確認されています。なおシュタイナーの思想の流布については、松江高校での講義の様子が人智学の講義として写真に残っており、その内容については長女メヒテルトにより英文で若松著の『縁の環』に解説を寄せています。残念ながら、昭和10年頃を境にヒトラーによって禁じられたが、密かに彼は日本国内でシュタイナー教育理念を広めていたことが知られています。戦後これが復活して、日本でもシュタイナー学校が創られ、最近は一貫教育の象徴となっており、教育史上、カルシュは重要な位置を占めて折るようです。多くの宗教哲学者(三笠宮崇仁殿下、西田幾多郎、鈴木大拙、高橋敬視、長屋喜一)との交流も記録とともに確認されております。そして、さらにカルシュが当時の高校生への講義のなかで、「西暦2000年頃、ヨーロッパ文明が自己矛盾から他との軋轢が各所で生じること」を語った注目すべき記録を見ることができます。

以下に、カルシュが残した 著書と生徒への言葉を掲げておきます。

カルシュに関する全体的な解説

カルシュ博士の 全体的な記載として公開しています。 なお、同博士に因んでHerbert St.Goar夫妻のライン川沿いのSt.Goar市からの歓待の様子と長女が若松に残した文面およびベルリンフンボルト大学の Prof.K.Kracht から寄せられた激励と提案のメールを記載します。

カルシュ博士に関する新聞連載、出版など

カルシュに関する展示会

カルシュ顕彰に関する活動

NHK松江放送局(インタビュー)他に、民間放送局と合同(カルシュの旧住居)で数回
山陰ケーブルビジョン《フリッツ・カルシュ》
2017年1月1-4日 2月21,23日,2018年8月再放送
横浜国立大学工学部の弘南寮による研究経過の概略の記載があります。
また、ドイツでかつて行った講演の資料の記載があります。さらに、山陰中央新報には、カルシュが90年前に自ら撮影した
日本三大神幸船祭と呼ばれるホーランエンヤ祭と今上陛下のご即位時にあって昭和天皇の御大典行列が紹介されています。

以下に履歴は関連する補足として
Wakamatsuのドイツ語略歴

追記として、カルシュの第一世界大戦時の従軍記録 href="http://wakahide.dyndns.org/mechtild/従軍.pdf">従軍記録を含む青春日記未整理の原稿および自身の肉声の講演記録を記載しました。 なお、ユダヤ人を妻とするカルシュは苦難の中で家族の非論理的扱いをも経験しております。

おわりに  これまで、展示会や雑誌、著書によって公開した資料はお申し込みにより、カルシュ博士顕彰会の代表者の名前で資料の利用許可証を発行します。これについては、同会の規約(抜粋)発会の経緯をご覧ください。 本会のホームページへのご意見や関連情報をメールで是非 カルシュ博士顕彰会宛にお寄せください。

【追 記】要望により、カルシュ博士の顕彰に心を寄せる人々に関する日独米での記録の紹介のあらましをご覧ください。

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